離人症の苦しみ
普段平気なフリはしていても、
やっぱりふと「楽しいと思われるもの」と対峙した時、
感動ができなくなっている自分が生きてる心地がしなくて、とても辛いです。
重度の人に比べて大したことはない、確かにそうだろう。
自分はうつ病も治ったし、原因になる環境も排除した。
でも、うつ病だった時と同じで、辛さの程度を比べてはいけない。
これは私の苦しみで、誰も理解してくれないのは当たり前で、共感も無理だと思う。
そして離人症の場合、自分が離人症だという自覚を持ってしまう事が、
確実に辛くする行為なので、うつ病とは違い、共感の声は邪魔なだけになる。
(そうじゃない人もいるだろうけど、私はそうなんです・・・)
ツイッターでふと離人症について呟くと、けっこう検索している人がいるようで、わりと高めの頻度で知らない人からいいねが飛んでくる。
その人にとっては、共感で仲間だと思っていいねを押してくれたのは分かるが、こっちとしては、離人症であることを「ぼんやりと認識していたい」ので、誰かから反応があるとはっきりとした現実になる気がして、なんとなく嫌だと感じてしまった。
これからはツイッターでの離人症発言はなるべく控えようと思う・・・(めっちゃわがまま)
話は戻るけど、離人症は他の人から見ても何も変わらないので、理解され辛い。
自分の周りに膜があるような、いや、自分にとっては視覚と聴覚の感覚だけが異様に悪いというか。
こころの動きはむしろ活発だ。
喜怒哀楽激しいし、架空のお話でも感動して涙が出る。
視覚と聴覚の感度が異様に悪い。
良い景色を見ても、それがこころに入ってこない。
人の話は音にしか聞こえない感じで、言葉がこころに入ってこない。
どちらも、結果的にぼーっとしてしまう。
ただ、ゲームやPCなど、画面を通すものは元々膜があるようなものなので、
離人症であってもなくても同じで、けっこうダイレクトにこころに来る。
なので、こちらは結果的に感動したり涙したり、こころが動きやすい。
ゲームの対戦や、ストーリー、映画やアニメは問題ないというのは救いだ。
自分が離人症になった原因。
はっきりわかっている。
以前から書いている事だけど、本当に、人の怒りに振り回されるのが怖い。
結局直近に辞めた会社での出来事だって、
離人症の現実感の喪失がなかったら、たぶん再起不能だったと思います。
この時はまだ病院に行っていて緊張感を薬で取り除かなければいけなかったし、よく考えたら全然万全じゃなかったです。
離人症に守られなかったら、社会が信じられなくて、何もできずに引きこもりになってたかもしれません。
今もまだ何も動いていないので、引きこもりのようなもんですが、
まだ独立して頑張ってみようと思っているので、離人症の膜がなくてダイレクトに人の理不尽な怒りを受け入れていたら、その気力さえ奪われていた危険性がありました。
悔しいけど、離人症はつい最近まで、
ちゃんと自己防衛の手段として立派に機能していたんです。
私を守ってくれていました。
そういう事がありますので、たぶんこころの底から安心できる環境にならないと、絶対に治らないと思いました。
でも、そんなの待ってるだけで本当にいいんでしょうか。
ぶっちゃけ本当に辛いんですよ。
感動できるはずのものでできないって、旅行とかで良い景色をみても、ふーん・・・で終わっちゃうんですよ。
きれいなんだろうなぁって他人事みたいになってしまうし。
人の話が怖くて聞こえづらい事が多いのも、
これは実際に仕事でも支障が出てましたし、まじめに困ります。
話が入ってこないってのは、こころに入ってこないので、思考ができなくなるんです。
企画ものとかを人と話し合って相談する時は、やりづらくて歯切れが悪く、申し訳なかったです。
人の怒りに振り回されるのが怖いというのが原因なら、それはもう怖くないと思えばいいのですが、それを無意識レベルに覚えさせるにはどうしたらいいんでしょう。
そういうのが簡単にできるなら、世の中こんなに離人症で苦しむ人なんかいません。ある意味うつ病よりも苦しいと思います。
あと、自分の場合それだけではなくて、
「努力の末に、それを無に帰すような怒られ方が恐ろしい」という気持ちと、
「悪い事、ミスをすると絶対に許されないと思い込む」というこころのクセがあって、
これって何か原因があったりするんでしょうか・・・
自分は頑張ったらそれを認めてもらいたいし、ちょっとくらいのミスでも許してもらえたらもっといろいろ動けそうで楽しそうだし、
でもこれが怖くて、縮こまってしまう。
「努力の末に、それを無に帰すような怒られ方が恐ろしい」
これは、人に怒られなければいいんです。
コンテストとかダメな事ってあるけど、別にダメならそれは実力不足だけで終わるんです。
なぜか怒られる事が多いし、私が何したって言うんだよって言うのが本音ですが、そんなに自分の態度が気に入らないのかなって思ったりするし、やっぱり人が怖い、になっちゃうんですよ。
ただ、これは、なんとなく環境によって浄化されていきそうです。
気の合う人とだけ付き合ったり、自己防衛したり、気にしないように努力することは可能だと思いますから。
やっかいなのはこっち。
「悪い事、ミスをすると絶対に許されないと思い込む」
これは相当根深い。子供の頃からのこころの傷そのものです。
悪い事したら体をひっぱたかれたりもしたことがありますし、一日中家の外に出されてた事もありますし、今思い出しても辛くて泣きそうです。
思い出しても泣きそうって事は本当に辛かったんだろうなって思います。
本当に悪かったとは思いますが、やっぱり怖かったんですよね。
だから自分は強くあろうと、一人で頑張らなきゃいけないと思って強がって、
それが社会人になってから不適合な考え方でうつ病になったんです。
一度うつ病が治りかけるとともに離人症も治っていますが、また「仕事でミスして理不尽な怒られ方」をしたので、そこから離人症だけ再発です。
すごいですよ。怒られた瞬間にすぐに再発しました。ぶわんっ て。
(厳密にはあれはミスじゃなくて、
ミスしない為に分からない事を聞いたら
なぜか怒られたっていうまじもんの理不尽だけど、
そいつからしたら、仕事ができない=ミスだったんだろうなぁって・・・)
無意識の自分からしたら、もう二度と相手の怒りをこころに入れまいとする防衛的な動きです。
こんなに一生懸命に丁寧に頑張ろうとして、理不尽ぶつけられたら何も信じられんのですわ。
でも私はくじけなかったので、無意識レベルで防衛しないと、現実の意識だけではまた無理をするの丸わかりです。
無意識の自分かしこいです・・・・
だから、自分に必要なのは、もしかしたら、
ミスしても怒られないで、優しく教えてくれるとか、許して笑ってくれるとか、そういう経験をもっと積むことなんだと思います。
でもこれを今から積んでいくのは大変です。時間がかかる事は明白です。
子供の頃からのこういった経験を浄化できるほどの量って、大変ですよ。
だから多少は自分の考え方のクセを見つめなおして、矯正していくのも大事だなって思います。
ちょっと夢とか手がかりにして、出来る事を探していきたいと思います・・・
やっぱりふと「楽しいと思われるもの」と対峙した時、
感動ができなくなっている自分が生きてる心地がしなくて、とても辛いです。
重度の人に比べて大したことはない、確かにそうだろう。
自分はうつ病も治ったし、原因になる環境も排除した。
でも、うつ病だった時と同じで、辛さの程度を比べてはいけない。
これは私の苦しみで、誰も理解してくれないのは当たり前で、共感も無理だと思う。
そして離人症の場合、自分が離人症だという自覚を持ってしまう事が、
確実に辛くする行為なので、うつ病とは違い、共感の声は邪魔なだけになる。
(そうじゃない人もいるだろうけど、私はそうなんです・・・)
ツイッターでふと離人症について呟くと、けっこう検索している人がいるようで、わりと高めの頻度で知らない人からいいねが飛んでくる。
その人にとっては、共感で仲間だと思っていいねを押してくれたのは分かるが、こっちとしては、離人症であることを「ぼんやりと認識していたい」ので、誰かから反応があるとはっきりとした現実になる気がして、なんとなく嫌だと感じてしまった。
これからはツイッターでの離人症発言はなるべく控えようと思う・・・(めっちゃわがまま)
話は戻るけど、離人症は他の人から見ても何も変わらないので、理解され辛い。
自分の周りに膜があるような、いや、自分にとっては視覚と聴覚の感覚だけが異様に悪いというか。
こころの動きはむしろ活発だ。
喜怒哀楽激しいし、架空のお話でも感動して涙が出る。
視覚と聴覚の感度が異様に悪い。
良い景色を見ても、それがこころに入ってこない。
人の話は音にしか聞こえない感じで、言葉がこころに入ってこない。
どちらも、結果的にぼーっとしてしまう。
ただ、ゲームやPCなど、画面を通すものは元々膜があるようなものなので、
離人症であってもなくても同じで、けっこうダイレクトにこころに来る。
なので、こちらは結果的に感動したり涙したり、こころが動きやすい。
ゲームの対戦や、ストーリー、映画やアニメは問題ないというのは救いだ。
自分が離人症になった原因。
はっきりわかっている。
以前から書いている事だけど、本当に、人の怒りに振り回されるのが怖い。
結局直近に辞めた会社での出来事だって、
離人症の現実感の喪失がなかったら、たぶん再起不能だったと思います。
この時はまだ病院に行っていて緊張感を薬で取り除かなければいけなかったし、よく考えたら全然万全じゃなかったです。
離人症に守られなかったら、社会が信じられなくて、何もできずに引きこもりになってたかもしれません。
今もまだ何も動いていないので、引きこもりのようなもんですが、
まだ独立して頑張ってみようと思っているので、離人症の膜がなくてダイレクトに人の理不尽な怒りを受け入れていたら、その気力さえ奪われていた危険性がありました。
悔しいけど、離人症はつい最近まで、
ちゃんと自己防衛の手段として立派に機能していたんです。
私を守ってくれていました。
そういう事がありますので、たぶんこころの底から安心できる環境にならないと、絶対に治らないと思いました。
でも、そんなの待ってるだけで本当にいいんでしょうか。
ぶっちゃけ本当に辛いんですよ。
感動できるはずのものでできないって、旅行とかで良い景色をみても、ふーん・・・で終わっちゃうんですよ。
きれいなんだろうなぁって他人事みたいになってしまうし。
人の話が怖くて聞こえづらい事が多いのも、
これは実際に仕事でも支障が出てましたし、まじめに困ります。
話が入ってこないってのは、こころに入ってこないので、思考ができなくなるんです。
企画ものとかを人と話し合って相談する時は、やりづらくて歯切れが悪く、申し訳なかったです。
人の怒りに振り回されるのが怖いというのが原因なら、それはもう怖くないと思えばいいのですが、それを無意識レベルに覚えさせるにはどうしたらいいんでしょう。
そういうのが簡単にできるなら、世の中こんなに離人症で苦しむ人なんかいません。ある意味うつ病よりも苦しいと思います。
あと、自分の場合それだけではなくて、
「努力の末に、それを無に帰すような怒られ方が恐ろしい」という気持ちと、
「悪い事、ミスをすると絶対に許されないと思い込む」というこころのクセがあって、
これって何か原因があったりするんでしょうか・・・
自分は頑張ったらそれを認めてもらいたいし、ちょっとくらいのミスでも許してもらえたらもっといろいろ動けそうで楽しそうだし、
でもこれが怖くて、縮こまってしまう。
「努力の末に、それを無に帰すような怒られ方が恐ろしい」
これは、人に怒られなければいいんです。
コンテストとかダメな事ってあるけど、別にダメならそれは実力不足だけで終わるんです。
なぜか怒られる事が多いし、私が何したって言うんだよって言うのが本音ですが、そんなに自分の態度が気に入らないのかなって思ったりするし、やっぱり人が怖い、になっちゃうんですよ。
ただ、これは、なんとなく環境によって浄化されていきそうです。
気の合う人とだけ付き合ったり、自己防衛したり、気にしないように努力することは可能だと思いますから。
やっかいなのはこっち。
「悪い事、ミスをすると絶対に許されないと思い込む」
これは相当根深い。子供の頃からのこころの傷そのものです。
悪い事したら体をひっぱたかれたりもしたことがありますし、一日中家の外に出されてた事もありますし、今思い出しても辛くて泣きそうです。
思い出しても泣きそうって事は本当に辛かったんだろうなって思います。
本当に悪かったとは思いますが、やっぱり怖かったんですよね。
だから自分は強くあろうと、一人で頑張らなきゃいけないと思って強がって、
それが社会人になってから不適合な考え方でうつ病になったんです。
一度うつ病が治りかけるとともに離人症も治っていますが、また「仕事でミスして理不尽な怒られ方」をしたので、そこから離人症だけ再発です。
すごいですよ。怒られた瞬間にすぐに再発しました。ぶわんっ て。
(厳密にはあれはミスじゃなくて、
ミスしない為に分からない事を聞いたら
なぜか怒られたっていうまじもんの理不尽だけど、
そいつからしたら、仕事ができない=ミスだったんだろうなぁって・・・)
無意識の自分からしたら、もう二度と相手の怒りをこころに入れまいとする防衛的な動きです。
こんなに一生懸命に丁寧に頑張ろうとして、理不尽ぶつけられたら何も信じられんのですわ。
でも私はくじけなかったので、無意識レベルで防衛しないと、現実の意識だけではまた無理をするの丸わかりです。
無意識の自分かしこいです・・・・
だから、自分に必要なのは、もしかしたら、
ミスしても怒られないで、優しく教えてくれるとか、許して笑ってくれるとか、そういう経験をもっと積むことなんだと思います。
でもこれを今から積んでいくのは大変です。時間がかかる事は明白です。
子供の頃からのこういった経験を浄化できるほどの量って、大変ですよ。
だから多少は自分の考え方のクセを見つめなおして、矯正していくのも大事だなって思います。
ちょっと夢とか手がかりにして、出来る事を探していきたいと思います・・・
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